いつも感心するのは、石川遼のコメントである。日本のプロゴルファーのコメントで印象深いのは、ジャンボ尾崎や青木功。この2人が秀逸だった。
「自分の好きなこと、目標、夢で努力することは、苦労でもなんでもないんだ。それがつかめたときには、笑って話せるだから………。」と、ジャンボが言ったのも、そのひとつだ。
青木功と2年前に話したとき、彼が言った。ゴルフと出合い、好奇心という電車に乗ったんだから、やがて終着駅が来るまでいつまでも乗っていたい。」というコメントが心に響いた。
石川遼が、春先の米ツアー2度目の挑戦をした。初戦は、ロサンゼルスのリビエラCCで開催されたノーザントラストオープンだった。その時、「昨年は、石川遼のゴルフを日本に置き忘れてプレーした。」と語っていた。なるほどな、と思う。
ジャンボにせよ青木にせよ、そして石川にせよ、スポーツ選手が発するコメントに、ある種の共通点があることがある。例えば、メジャーリーグのイチロー選手。確かテレビ番組で聞いたのだと思うけど、自分の成績やコンディション、あるいは記録に対して挑戦する上で、「イチローという選手に対する見方は、僕が一番厳しかった。」と言ったことがある。
僕たちのゴルフで、いや生活の中でも、客観的に自分を見つめながら、自分を評価し、しかも足りない部分を補う努力というのを、あまりすることはない。それでいて、自分に不平不満だけをぶつける。
世阿弥の「花鏡」の中に「離見の見」という言葉がある。
「見所より見る所の風姿は、我が離見なり」
演じている自分を観客が見るときは、客観的な目で見る自分である。それを離見という。そして「離見の見」は、自分ともうひとり俯瞰して見ている自分の距離感と冷静さを忘れないという意味だと思う。
イチローにせよ、スポーツ選手で時代を築く人物のコメントに、しばしば、この「離見の見」と思える言葉が多い。僕たちは、ゴルフをしていて、OBを打ったり、ミスを二度、三度繰り返すと、我を忘れて、熱くなって自暴自棄になる。
達人たちは、そんなとき冷静で、客観的な自分が、自分の中にいて、熱くなる自分をコントロールして監視してくれるのだろう。
30年以上も前、まだビギナーだったころに、中部銀次郎さんとプレーをしていて、3ホル連続パーを取り、次のホールでボギーをたたいて、なぜかホッとしている僕を見て、「ようやく普段の自分¥に戻れた気がしたんだろう」と、ニヤニヤしながら、言ったことがある。3連続パーで好調なはずの自分に夢中になりすぎて「離見の見」がなかったわけだ。
レベルは低いけれど、18ホール4時間ゲームが続くゴルフでは、考える。脳が勝手に働く時間が長 すぎるが故に、自分をどこかに置き忘れてしまうプレーが続出するのだろう。
「昨年は目から入る情報に苦戦した。芝目が立って見えたり、強いと思ったり。でも、この1年で経験を積み重ねて、自分の目も変わってきている。情報が入り過ぎていない感じ。」と言った石川遼。
彼の強みは「離見の見」という自分を見つめるしっかりとした尺度があることだろう。特にゴルフでは、それほど、自分を整えることがむつかしい。「
「実に自己は自分の主である。自己は自分の帰趨である。故に自分をととのえよ。」
という法句経の、自分の主、よるべというのは、世阿弥の「離見の見」と符号すると思うのだ。
―――「昌鳳和尚のゴルフ講話」より
(神奈川県・法勝寺 三田村昌鳳師 元週刊アサヒゴルフ編集長)